circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

9/16深夜
新文芸座ベルイマンオールナイト。
鏡の中にある如く(1961)、冬の光(1963)、沈黙(1963)、ペルソナ(1966)


唯一ペルソナが超絶的にやばかった。あとはまあ、ベルイマン。神を語っているのにぜんぜん神聖な映画にならないのがブレッソンとの違い。聖なる映画監督とは呼ばれないだろう。神をむしろ道具にして映画を撮っている感がある、というのは、「鏡の中にある如く」の小説家そのものがベルイマンの生き写しのように。あの小説家は神の存在さえも、感じていないのに道具にして小説に入れ込むという人間だった。ベルイマンの神様モノには神聖な輝きを感じない。むしろ、人間喜劇を思わせる。神を信じる人間側が深刻な顔をすればするほど、その予想どおりの深刻さというか、予想の延長線をはるかに外挿してくれるので、もはや笑えてしまうのである。本当に深刻にさせたいのであれば、観客に予想をさせないような、非常に繊細な表現をしないと、観客は深刻になってくれない。なぜなら、目の前ですでに相当頭を抱えられていたら、どうやってそこに入り込めるというのだろう。エル・スールのオメロ・アントヌッティがあたしにどんなに深刻な悩みを感じ入らせ、そのせいであたしがどんだけその夜に悪夢を見せられたか。それは、エル・スールにおける演出と演技が、寡黙であり、われわれがその寡黙さのなかから彼らの悩み深さを主体的に想像せざるを得ない状況に置かれるからである。ベルイマンの深刻モノにおいては、われわれに主体的になれる余地はなく、ただひたすら繰り広げられる演劇舞台を客席からぼんやり眺めるに過ぎない。


とにかく「ペルソナ」は凄かった。他の三本は例の「神の沈黙三部作」、神の沈黙について。というよりセックスについての三部作といったほうがいいんじゃないかとさえ思うんだが。三作ともみんな頭を抱えて狂っている。「鏡の中にある如く」では「不良少女モニカ」20歳だったハリエット・アンデルソンが29歳になって現れる、相変わらずの絶妙なキチガイぶり、双極性、とことん明るくておてんばなんだけれど、どこかが崩壊している、という役がモニカと一緒で、彼女はどこまでもうまい(もはや演技ではなくて彼女そのものの部分が相当含まれているんじゃないだろうかとすら思う)。ハリエットの、モニカ時代よりはやっぱり年老いたけれど、その分化粧をしたときの美しさはモニカのときにはなかったもので。でも基本的に彼女の童顔的魅力だけでなんとかもっている映画だと思った。ハリエットのキチガイぶりはあたしと似ているな、と思う。人前ではとことん明るく振舞って、一人のときに夜も眠れず頭を抱えて苦しむ。そんなことを思っていたら、なんとまあ弟と近親相姦をした挙句、クモの形をした見えない神の裁きを受けて、発狂するなんて、爆笑せざるを得ない。だが、監督本人は真剣だし映画館も真剣なんだから、笑うわけにも行かず、どうやってこの笑いを発散すればいいのかと。


「冬の光」「沈黙」も、みんな頭が狂って神の不在を訴えるのだけれど、その悩みの表現の「あざとさ」が、「エル・スール」のオメロ・アントヌッティ+ビクトル・エリセの寡黙で深い悩みに比べて、あまりにも大げさに過ぎる、無理やり演劇を見せられているみたいだ。で、逆にお笑いになるんだけど、秋君がとなりにいないので笑うこともできず困る(こういう深刻な映画を夜の勢いで笑い飛ばすのが秋君とあたしの映画鑑賞の楽しみだった)。今回も「沈黙」とかかなり笑えたんだけれど。あれのどこが沈黙なんだ、と思う。むしろやりたい砲台じゃないか。インテリの姉はオナニーするし(映画史上初のオナニーじゃないだろうか)、その姉の目前で妹はセックスしてるし。ああスウェーデン。「冬の光」も、あんまりにも悩みを説明しすぎている感が。で、やっぱり性の話になるし。しかし、やっぱり神の不在もので一番笑えるのは「処女の光」で、あれも性の話になるんだが、あれは犯されているんだから女の子は仕方なくて、しかし本当にラストがキチガイだと思った、あれは神の奇跡というより監督のキチガイと思え、見てたみんなで爆笑したんだけれど。基本的に彼は深刻になればなるほど、本来の喜劇的要素が出てしまう人なんだろうと思う。「沈黙」と「冬の光」を見るんだったら、むしろ「処女の泉」のほうがそういう意味で最後笑えていいし、いや、むしろ最後の映画(と言ったはずだった)「ファニーとアレクサンデル」という名作巨大喜劇があって、こっちは神とか死とかいらぬ文句を抜かさずに、ひたすらエンタテインメントしているのですばらしい。ファニーとアレクサンデルだけ見ときゃいいんじゃないかと思う。たしかに蓮実が言うとおり、ベルイマンの「冬物」は深刻ぶり過ぎて滑稽だ。一方、初期のベルイマン「夏物」は、明るいにもかかわらず、とめどなくさびしい透明さを持っていて。特に「夏の遊び」なんか、明るいはずの映画が、とんでもない深い悩みへと急降下していき、冬物よりもずっと観客を圧倒的に深刻にさせる映画ですばらしい。「モニカ」もそうだけど、明るいものを撮ろうとするときのほうが暗い一面をきちんと描けているだなんて変な監督だと思う。


「ペルソナ」はやばかった。ソフト化すべきだ。断然DVD化すべきだ。なぜこんな名作が、ソフト化されず、ほとんど言及されないのか。有名な「神の沈黙三部作」がマンネリに陥っている感があるのに比べて、その後にそれを打ち破って新しいものを作りたいとでも言うかのごときベルイマンのほとんど怒りにも似た激烈な欲求があたしを殴りつけてやまない。かっこよすぎる、かっこよすぎる。久しぶりに映画の新しい可能性というものを見た。あらゆる奇怪なエフェクトが効果的で、例えばフィルム自体を焼いていったり、同じシーンを別の視覚から二度繰り返したり(やばかった)、幻想シーンの白いカーテンがタルコフスキーのように美しかったり(もう幻想シーンの連続の連続で、顔=ペルソナが逆行で陰になり二人が重なっていくシーンとか、もう唖然とするかっこよすぎて)。このまま永遠に続いてほしい見ながら死にたいとおもう映画を久しぶりに見た。本当に、あのまま永遠に続いてほしかった。


例の「タルコフスキーの選ぶ10本」の1。タルコフスキー、かなりこれから影響を受けてるんじゃないかと思った。カーテンがやばかった。「サクリファイス」にでてくる、モノクロ画像で怪しく白く光る透けたカーテン。
なんというか、もうアニメ的にやばかった。なんというか、ルパン三世的かっこよさというか。グレイスケールではなく白と黒だけで描かれるシーンが強烈に印象に残る。そして、ここでは初期に戻ったかのようにベルイマンは多くを語らない。手法があまりにも斬新なのでそちらに全力を注いでおり、こちらもそれを全力で受け止め続けなければならない、という類の。一言で言うと超かっこいい。ゴダール初期の一番いい映画(あたしはそれは「はなればなれに」だとおもう)と似たような雰囲気、だけどこっちのほうがずっと手法が前衛的で、ショッキング。つまるところゴダールのスピード感+タルコフスキー「鏡」ノスタルジア」あたりの突然の幻想っていう感じ。まったくやられた。これだけ映画の手法で圧倒的に殴られたのはヴィターリー・カネフスキーとキラ・ムラートワ以来。ただ、奥底まで突き抜けてくる感動かというとそうではなくて、ただひたすらかっこいい、これは真似できない勢いだ、ああ、負けた、と思い続けるしかない。こちらも一緒に動かされた「エル・スール」とか、こちらも一緒にこの世の果てで泣き咽ばざるを得ない「マザー、サン」とかとは、比較対象にならないのだけれど、どちらをとるかといわれればもちろん後者を取るんだけど。だけどこの様式美、思い切りは凄いわ。ベルイマンがこんなことをしてくるとは。突然変異的。パラジャーノフならあまりにも異質の様式でまだ笑う余裕がこちらにあったけれど、これはちょっとこっちに身の覚えがある分切り裂かれるかんじ、それがカネフスキームラートワを想起させる原因かもしれない。暴力的にあたしに侵入してくるという意味において。