circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

ビクトル・エリセ「エル・スール」を見ていつも涙してしまうのは、少女エストレリャがスペインの雪国で父親の青春時代の「南」を写真を通じて想像するシーン(裏では美しいグラナドスのスペイン舞曲が鳴っている)で、写真をめくるエストレリャの手が大写しになり、いや、写真だけだったか、もはや写真がフレームを占めてしまって、「南」の静止画が何枚か主観ショットというのか、エストレリャが見ているのと同じ視線でわれわれはその写真を見せられて、彼女とぼくは同一化して、しかし不意討ちのように次の写真として窓の外の雪の庭の静止画が痛々しく3枚入る。そこでいつも私は涙してしまう、憧れと今の格差、過去の美しさと現在の零度の格差をこれほど感じさせられることがあったろうか?あの映画は予算不足でエストレリャは南へ行くシーンを撮ることができなかったが、まったくそれは偶然の正解というべきではなかっただろうか。エストレリャと同一化してしまった私は絶対に南に行きたくないのだ。憧れながら、行きたくないのだ、南行きの車に乗りながら、いつか必ず途中下車してしまうのだ。