circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

鬱文書

とうがたつ
 
のだと思う。私が仕事について質問したり、反論したり、依頼したりするときに、必ずとうがたつのだ。その質問はたいてい僕の怠慢によるもの(本来は鬱病由来、と鬱病のせいにもできる、ここに鬱病モラルハザードと呼びたい現象が起こるのだが、それはまた後述する予定である)であるため、質問する時点で、私の中でわだかまりが有るのだ。そして、当然のごとく相手は怒る。怒られると、しゅんとしてもう二度と立ち直れないのも鬱病者の特徴だ。そうやって僕はなんにも仕事ができなくなっていく。もちろん、仕事自体に意味が見出せなかったことも大きな理由だし、研究室の人たちが暗かったことも理由の一つだし、いろいろあるけれど、どんな鬱病の本にも書いてある、「理由探しはするな。ただ、治せ」と。過去を振り返って暗澹とする余裕などないのだ。未来を見よ、とある。だから、僕はとうを立たせながらやっぱり質問したり反論したり依頼したりするだろう。嫌な顔をされるだろう。そしたらどうしたらいいだろうか。その場で倒れこめばいいのだろうか。嘔吐すればいいのだろうか。失神すればいいのだろうか(たぶんできそうなきがする)。無理をするつもりはない。やっぱりそこで辛いと思ったら、僕はもうこの研究室を辞めよう。僕は自分を押し出すほど(つまり相手の時間をいやいや割かせるほどの)モチベーションはない。修士論文をそこまでして書きたいと思わない。だが、もう一度同じことを繰り返すのはごめんだから留年は絶対嫌だ。この1ヶ月で嫌なことがあったら辞めてしまおう。いつものように、後味悪く。飛ぶ鳥跡を濁さず、の逆をいくように。
 
わたしのような鬱病者を間違って入れてしまった研究室は不幸だったといわざるを得ないし、この研究室に入ったわたしも不幸だったといわざるを得ない。さあ、そしたら就職先はどうなのか。どんな会社か僕はよく知っている。そしてあまり明るい未来を描いていない。一度働いたことがある。そのときも鬱だったから、成果は出せず、人間関係にこじれ、泣きそうになっていた。幸せではなかった。たぶん今回も幸せではないだろう。そして会社もこんな人間を受け入れることは幸せではないはずだ。ならなぜ採った。大量に就職活動して全滅したわたしを唯一なぜ救った。前に働いていたからか。それだけか。たぶんそれだけだろう。わたしはまた働けるのか。薬を飲みながら、どこまで自分を取り戻せるのか。ありもしない自分を取り戻せるのか。僕は死ぬしかないのか。死ぬつもりはない。入院ならしてもいいと思い始めている。作業所でも、フリースペースでも、なんでもいい。人と接することができて、放縦無責任に1年だけ過ごす時間をください。そのあいだに鬱病は薬で治るでしょう。今日は5時までおきている。この恐るべき意志の弱さ!「後十分、後十分があだとなり」と言う感じです。いいな、この川柳(違うだろ