circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

好きで好きで仕方のない人がいます。素敵で、誰の目からも素敵なんだろうな、と思ったりします。でも案外そうではなかったりするものなんですね。僕が大好きなAさんのことを、僕の大好きなBさんが苦手だということは、ありうることだと言うことです。それが、僕のこの世の七不思議のひとつです。
 
それでもやはり、「誰からも好かれてしまう」タイプの人はいて、嫌われると大いにへこむ僕なんかは、いいな、うまく世間を渡れて、と思うのですが、たぶん本人は本人で、僕なんかには見えないいろいろな苦しみがあるのだろうと思います。
 
好きで好きで仕方がない人たちが僕にはいて、some of themは僕から永遠に去り、some of themは僕のまわりにいて、the other of themはまだ僕の前に姿を見せていません。永遠に去ってしまった人のために苦しむのは辛いので、彼/彼女らのことはあまり深く考えないようにして、あとの2群について考えるのは、とても幸せなことだし、彼/彼女らがいる世界を残して自死するというのはどういう不始末でしょう。
 
僕は何事も美化しすぎる傾向が有るのですが…天使だと思っている人が数人います。あれはたぶん人間ではないと思います。ただ、天使と人間の間に存在しうるのは友情だけなので、そこは履き違えてはいけないところなのだと思います。うまくいえないのだけれど、絶望的に壁を感じるのです。その壁は友情に抗する壁ではなく、恋愛に抗する壁なのですが。
 
またこのような駄文を書いてここに垂れ流してしまいます。天使たちはこの時間に何を考えているのだろう、と思います。たぶん存在しないんだろう、と思います。たぶん、僕の前にいるときだけ、僕の前には存在するのだろう、と思います。それ以外の時にはたぶん、存在しないのです。息もしていないし、食べてもいないし、それは「ねじまき鳥」における妻のような存在です。存在しているようで、存在していないようで、彼らはチャットのみが許されるのですが、チャットしたからといって、回線の向こうの妻がほんものの妻かどうか、分からないわけで。天使たちを人間に引きずりおろす、というのが僕のテーマなのですが、それはすなわち天使たちもヴェールを引っ剥がせば食べて吐いてウンコもするぜという証明をする、という、パゾリーニ的世界であって、あんまりいい趣味とは思えず、あんまりそれをライフワークにしたくはありません。むしろ、なぜ男の人は女の人を美化するのか、なぜ男の人は女の人を忘れられないのか、それをライフワークにしたいなあ、という気持ちはあります。ベアトリーチェ、ラウラ、ノルウェイの森グレート・ギャツビー、明暗、三四郎智恵子抄、アーリーン・ファインマン。なんとなく、全て過去が美化されているような気がします。グレート・ギャツビーで、美化し続けてきたほんものの彼女に出会ったギャツビーが、その興奮の冷めた後、美化し続けてきたその時間の贅沢さをふと思うようなシーン、そして美化してきた姿と現実との少しの乖離について考えるシーンがあったような記憶が有るのですが、そうした物事について考えたいのです。例えばもし僕が僕の永遠の憧れであるAという女の子に今もう一度会えたとして、がっかりしないだろうか、ということです。普通の子になってしまって、と思わないだろうか、ということです。彼女の処女性について何かを思わないかということです。フォークナーが「響きと怒り」の中で、処女性が重要なのは男にとってであって、女にとってではない、とある種の極言をしていますが、わりと的を得ているような気がします。Aは永遠に処女でなくてはならないのです。たぶん。だからこそ、僕はAにはもうあってはならないし、それ以前にAが僕のことを嫌っているから問題外なのだが。女とは、いったい、なんなのでしょうか。「男とはいったいなんなのでしょうか」という問い以上に、僕はこの問いが重くのしかかってきます、それは僕が男だからでしょうか。あんなにも重い謎を含んで存在し、あるいは存在せず、あるいは疾走して去っていく、あの女という存在は、いったいなんなのでしょうか。あれは、僕自身なのでしょうか。なんとなく思います、僕がああなりたいのだ、と。そして、僕はいつも嫉妬をするのです。近寄れば近寄るほど知りたいと思い、知れば知るほど嫉妬をする、しかも謎はいつまでもとけないままたまねぎのように剥けていって、気がつけば消えてしまっている、という、存在のあり方。あなたは誰と僕は叫びたかった。自己主張してよ。かっこ悪いぐらい自己主張してよ。わたしを見て、わたしを見てって叫んでよ、絵の展示会開いてよ、映画作ってよ、ホームページ作ってリンクばら撒いてよ、わたしわたしわたしって言ってよ!!
 
だけど、あの種の人たちは何もしないでただ微笑んでいるのです。仏のように。京都の国宝の弥勒像は、それに恋した大学生が抱きついたせいで小指が折れてしまったそうです。そして弥勒は傷ついてしまった。不可逆反応を起こしてしまったのです。天使と人間が交わるとはたぶん、そういうことなのではないかと思います。わたしが人間である以上、天使たちとは、たのしく語らっているに越したことはないのだなあと思うのです。