circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

「好きだということ+愛するということ」と「自信」OR「時流・時代・世間の影響」?の関係について
 
僕が音楽家になりたいのは「この」僕が音楽が好きだからだろうか?それともみんなが音楽家に憧れるからミーハーに同じ方向を向いているだけなのだろうか(もうすこし説明すると、皆がやりたいって思ってるから、それが指針みたいに思えてるんじゃないか、たとえば勉強ができる奴がとりあえず東大を目指すように)
 
「沈める」の過去ログを見ていて、1年間まったく同じ所をぐるぐるしている(いや正確には7年間なんだが)なあと気付く。これ。BBSのyukiko嬢に対するレス。

実家に帰ってキスイヤっていうTV番組を見ていると、
(これは毎回カップルが出てきて島田紳介トークするという番組みたいなのだけれど)
女優になりたいなんていう女の子と、それに反対する男の子が出演してて、
それが19歳なんだけど。男の子は、これを機にあきらめてもらおうと、
番組の芸能人たちに、どんなに厳しい世界かを彼女に教えてもらおうと、
するわけです。で、案の定女の子は出演者たちにいじめられるのですが、
(ちゃんと話せてない、とか、甘い、とか、もっとかわいくないと、とか、食える確率低いとか)
それでも女の子は泣かないで、「でもこのやりたいという気持ちは変わらない」
などというのです。その強い気持ちに私は泣けました。
最終的に彼女は彼氏を捨ててまでその夢に突っ走るのでした。
失敗するかもしれません、いや、失敗するでしょう。
にもかかわらず走らずにはいられない、というそこまで
強い気持ちを、どうして彼女はもてるのだろう、と、
私は不思議なのでした。なぜそんなに自信があるのか。
やりたい気持ちに、自信があるのか。
女優なんてみんななりたい憧れの職業なのに。
みんなあこがれることだから、自分がなりたいと思っているのも、
当たり前で、みんなと代わらない程度の気持ちじゃないだろうか
とか、不安に思わないんだろうか。
彼女にとってなぜそれが、憧れではなく、「あるべき自分」
として自信をもって設定できるのか。
それが、羨ましくもあり、不思議でもあり、
なんともいえない気持ちでした。
くそー。俺のばか。

「やりたいことを持て」とか「夢を目指せ」という現代の風潮に僕は警鐘を鳴らしたい。そういうものいいはカッコいい。アメリカンドリームね。だけど、それに失敗する可能性だって大きいし、実際ほとんどのひとが失敗するんだということを伝えていかなきゃいけない。そして、失敗した後の人生はどんなものかと言うことこそ、本当に重要な情報なのだ。と思う。例えば音楽家を目指して失敗した僕の父のたどった地獄だとか、プロ棋士を目指して失敗した人たちの物語将棋の子 (講談社文庫)がいかに悲惨なものだったか(もちろん、もう立ち直って、当時を振り返る余裕のある人も多いが、その悲惨の最中は自殺すれすれの世界だっただろう)、こういったことをきちんと伝えたうえで、「それでも君はこれをやりたいのか?」と聞くべきだろう。そして自信のない僕はこういうだろう「いやたぶんぼくはあこがれていただけです」そして「普通の」(ねえその傲慢さはなんとかなんないの?普通ってあんた偉そうに言うけどあんた最底辺だよ)人生を歩みながら、「いやうまれかわったらやりたいね、さいのうはあったとおもうよ」なんて赤提灯で言ってるんだろう。そうなりたいのか、といわれればなりたくないけれど、そうならざるを得ないのが人生だろう。それを納得して生きていくのだろう。それが選択肢A。選択肢Bというのがあって、失敗のリスクを知っている上で、それを括弧にくくって(失敗しても次にやりたいことが見つかるはずさ!みたいに)生きていくという方法。だけど、それができる人間だろうか僕は?明らかにNONだ。選択肢Bを選ぶんであれば、まず自己改革が必要だ。どちらにせよ僕はAもBも選ぶ元気がない。僕はアホでありバカである。病気である。そう信じることにした。信じるのがらくだから。本当にらくだから。いままで葛藤しまくってきたんだから、何か信じさせてくれよ。僕はびょーき、ただのびょーき、って信じさせてくれよ。その上で、できる範囲でいいから、僕が好きなもの愛しているものについて書かせてくれよ、行動させてくれよ。甘えさせてくれよ。それが本当の僕が好きなものなのか、世間からの洗脳かどうかは知らない。だけど、好きなんだもん。気持ちいいんだもん。このページにも、他のページにも、僕は苦しみばかり書いてきた。もう書かない。鬱が美しいとかもう言わない。確かに鬱は美しい。ジャクリーヌ・デュプレという僕の天使は、「若手の売れっ子にもかかわらずどこか憂鬱な顔をしていた、調子に乗った雰囲気ではなかった」、と誰かがどこかで彼女の第一印象として書いていた。デュプレのショパンチェロソナタ(彼女最期のスタジオ録音、僕の聖地アビーロードスタジオにて。1971年12月。ちなみにビートルズの「アビーロード」は1969年)を聴きながら、もう動かない指を精神力でむりやり動かしている彼女の、「歌」の心を聴きながら、とくに3楽章!もうこれは絶対敵わないな!と思う。僕は歌心があるつもりであったが、この天才を前にはもう土下座するしかない。ごめんなさい。僕はもうチェロは弾けません。すくなくともショパンは弾けません。と思った。