circustic sarcas

Diary of K. Watanabe

いつの日も地に足のつかないものがすきだった。いつの日も。こいびとはそれを嫌った。しっかりしたものが好きだった。わたしは夜明け前の空気が好きだった。こいびとは晴れたひるまが好きだった。わたしはゆめをひとりで見ていた。こいびとはゆめをふたりで見ていた。ゆめとゆめはちがうもので、ドリームとホープぐらいちがうものだった。わたしのゆめはいつかさめるものだった。こいびとのゆめはいつかかなうものだった。ゆめのあとで、というフォーレの美しい歌曲がある。ゆめからさめたひとはどうしてしまうのか、内容は忘れてしまった。ゆめからさめたわたしはどうすればよいのだろうか。また、ねてしまえばいいのだろうか。しかし古澤淑子女史は言っていた、歌手はつねに夢から覚めていなければなりません。わたしは強い反感を覚えたのを覚えている。演奏者が夢中でないものにどうして聞くものが酔えるだろうか、と思ったのを覚えている。
 
後ろでシューマンピアノソナタ1番が流れ始めた。久しぶりに聴く曲、シューマンと言う人のことを僕は好きではないのだけれど、ピアノソナタ1番は好きだ。クララの匂いがする。クララのテーマと勝手に僕が呼んでいる旋律が現れる。憧れ。性欲に負けた少年が次に走るのは、性欲そのものではなく憧憬でなければなかった、甘いものである必要があった。甘さ。甘さこそが重要だ。ある種の音楽には、「甘さ」こそが重要だ。と書いているとクララのテーマが始まった。この憧憬、上昇する旋律、オクターブをわざわざ使って転がって行くこの歌。一楽章の中間部!クララもまたおそらくロベルトにとって一時期は、女神だったのだろう。(あの)ブラームスにあれほどの甘い旋律をかかせたのもまたクララではなかっただろうか。クララ・シューマンの紙幣を僕はどこかにやってしまった。知的で美しい顔をした女性。
 
憧れと甘さはどこへ行ってしまうのだろうか。失うのが怖い。失うのが怖い。失いつつある。女の子に生まれたかった。大人の男として社会に出ていくためには、固くならねばなりません、たぶん、そうなんだろう。憧れや甘さはすべて過去へ向くのかしら。「ゆめ」はいつもさめるのかしら。わたしは目をつぶる。夜が好きだ。わたしは酒は嫌いだ。それ以外に酔えるものがたくさんあるのだから。